人物 は行

畠山重忠(はたけやま しげただ)1164-1205

母は三浦義明の娘。
1180年石橋山の戦いでは頼朝と対立していたが、やがて頼朝に属し、木曽(源)義仲や平家の追討、奥州征伐で戦功をたてた。
1990年、1995年の2度のわたって、頼朝の上洛の際の先陣を務めるたが、子の重保が北条時政の後妻牧氏の娘婿・平賀朝雅と争って時政に殺されたあと、重忠も北条軍と武蔵二俣川で戦って討ち死にした。

菅谷館跡に建つ畠山重忠像(埼玉県嵐山町)
畠山重忠首塚(神奈川県横浜市)

波多野義常(はたの よしつね)?-1180

源頼朝が挙兵時に、参加を求める使者を遣わしたが義常はこれを拒絶します。
頼朝が鎌倉に入ると、下川辺行平に義常追討を命じた。義常は行平の到着前に所領の松田郷で自害した。

八条院(はちじょういん)1137-1211

暲子内親王。鳥羽天皇第3皇女。1161年八条院の称号を宣下された。
膨大な所領を持ち、八条院領として大変勢力があった。

八田知家(はった ともいえ)?-?

八田宗綱の子。源義朝の子との伝承もある。
1183年志田義広を小山氏指揮のもとに倒した。平家追討では源範頼に従ったが、在京中に右衛門尉に任官したため源頼朝の反感を買った。その後復権し、有力御家人として活躍した。
奥州合戦では東海道郡の大将軍を務めた。将軍頼家の親裁が停止されると、13人の宿老のひとりとして合議制に加わった。

比企尼(ひき の あま)?-?


源頼朝の乳母のひとり。乳母として武蔵国比企郡(埼玉県)を拝領。おいの比企義員を猶子として、頼朝に推挙し奉公させている。娘は河越重頼の妻となっていたが、頼朝の子・頼家が生まれるとその乳母となった。母娘が2代に渡り源家の乳母を務めたことになる。
(比丘尼山(びくにやま)比企尼が夫は亡くなった後、草庵を営んだと伝わる)

比企義員(ひき よしかず)?-1203

源頼朝の乳母を務めた比企尼は、甥である義員を猶子として推挙し。比企氏の惣量を継承した。
1182年鎌倉比企ヶ谷の義員の屋敷で、北条政子が頼朝の嫡男・万寿(のちの頼家)を出産。比企尼の縁によって義員は頼家の乳母父に選ばれている。
平氏追討に従軍し、平宗盛が鎌倉に送られ頼朝と御簾越に対面した際は、頼朝の声を伝える役目を果たしている。
1198年娘の若狭局が頼家の妾となり、長男・一幡を生むと外戚として権勢を振るった。
1203年頼家が病になると、北条時政は一幡と頼家弟・実朝に頼家遺産分与を決定する。これに不満をもつ義員は頼家に時政追討の許可を得ます。しかし、この密議を聞いた政子が時政に報告。時政は大江広元の指示を取り付けると、義員を自宅に呼び出し殺害してしまう。

久松俊勝(ひさまつ としかつ)1526-1587

大永6年生まれ。尾張阿久比城主。水野忠政の娘於大(徳川家康の生母伝通院)を2度目の妻にむかえる。永禄3年(1560)以後家康にしたがい、三河宝飯郡の上之郷城主となるが、子の松平康元を入城させ、自身は岡崎城の留守居をつとめた。天正15年3月13日死去。62歳。

日野富子(ひの とみこ)1440~1496

室町幕府の8代将軍足利義政の室。9代将軍義尚(よしひさ)の母。
はじめ義政に男子がなく、1464年(寛正5)弟義視(よしみ)を継嗣としたが,翌年富子が義尚をうみ,両者をめぐる対立が応仁・文明の乱の一因となった。乱中、義視が西軍に出奔したため1473年(文明5)義尚が将軍となる。以後数年間,兄勝光と執政にあたり,1489年(延徳元)義尚死後,妹の子義材(よしき)(義稙(よしたね))を継嗣に定めた。
翌年義政の死後出家して妙善院慶山と称す。のち義材との関係は悪化,1493年(明応2)細川政元の清晃(義澄)擁立を支持し,清晃を義政猶子分として継嗣にたてた。
富子の行使した将軍家重事の決定権は,御台あるいは後家の尼たる地位に由来し,中世の女性として例外的なものではない。

平岩親吉(ひらいわ しんきち)1542-1612

戦国・江戸前期の武将。松平氏譜代の家臣平岩親重の子。三河生まれ。母は天野貞親の娘。通称七之助。徳川家康と年齢がほぼ同じで、家康が今川義元によって駿府に抑留されるとき、選ばれてこれに従った。
永禄3(1560)年、家康が自立してからはその馬廻衆として側近となった。次いで家康の長男信康の傅役となったが、信康が天正7(1579)年切腹させられてから謹慎。家康に請われて再出仕し、天正18年、家康の関東移封後、上野厩橋(前橋)城主3万3000石。関ヶ原の戦後,甲斐府中城6万3000石となり、家康の9男義直付の家老となり、義直が尾張に転じたとき,尾張犬山城9万3000石(一説に12万3000石)となった。親吉には子がなかったため没後は絶家。

藤原清衡(ふじわら の きよひら)1056-1128

平安後期の陸奥の豪族。後三年の役に源義家と結んで清原氏を滅ぼし、陸奥六郡を領有。平泉に奥州藤原氏の基礎を築き、中尊寺を建立。

      

藤原国衡(ふじわら の くにひら)?-1189

平安後期-鎌倉時代の武将。
藤原秀衡の長男。源頼朝の奥州攻めに際し、平泉方の守将として阿津賀志(あつかし)山(福島県伊達郡)で防戦。文治(ぶんじ)5年8月10日敗走中に和田義盛に射られ、畠山重忠の郎党大串次郎に討たれた。通称は西木戸太郎。

藤原信頼(ふじわら の のぶより)1133―1159

平安後期の公卿。忠隆の子。後白河法皇に愛されて院別当となる。権勢高い通憲に官途(官吏としての職務または地位)を妨害されたのを不満として、源義朝と結んで平治の乱を起こし通憲を殺したが、平清盛に敗れて、六条河原で殺された。

藤原秀衡(ふじわら の ひでひら)1122-1187

奥州藤原氏の3代。父は藤原基衡。母は安倍宗任の娘。
父基衡の死のあと陸奥・出羽押領使。1170年鎮守府将軍、縦五位下。1181年陸奥守、縦五位上。源義経の保護者として有名。
治承・寿永内乱で源頼朝の追討を期待されて,陸奥守に任ぜられるが兵をあげなかった。しかし、頼朝追討の請文を提出し,また平家追討中の木曾義仲に呼応して頼朝を討とうと呼び掛けたともいわれる。
平泉に宇治平等院の鳳凰堂を模して無量光院を建て、その東門のところに加羅御所をつくって常の居所とした。またその北に平泉館を構えて奥羽支配の政庁とした。現在では柳之御所跡として残る。
死に際して、義経を大将軍として結束するよう、子息の泰衡らに遺言したが、泰衡は義経を攻め、2年足らずで藤原氏は滅ぶ。
遺体は中尊寺の金色堂に納められ、身長160cm前後、胸は幅広く厚く、肥満型であった。血液型はAB型。死因は骨髄性脊椎炎または脊椎カリエスといわれる。

藤原基衡(ふじわら の もとひら) ?-?

平安末期の陸奥の豪族。清衡の子。父の後を継ぎ三〇年余にわたって陸奥六郡を支配した。毛越寺を建立するなど平泉文化を開花させ、奥州藤原氏の全盛を築いた。

藤原泰衡(ふじわら の やすひら)1155-1189

平安末期の陸奥の豪族。秀衡の子。父の遺言で源義経をかくまったが、頼朝方の圧迫に耐えかね、衣川の館に攻めて殺した。のち、頼朝に攻められて逃走中、部下に殺され、奥州藤原氏は滅亡。

藤原能保(ふじわら の よしやす 一条能保(いちじょうよしやす)1147-1197

源頼朝の同母妹を妻としたと思われる。
頼朝が挙兵し権勢を得ると,その後押しによって急速に官位が昇進する。
1186年北条時政に代わり2代目京都守護、1188年公卿に列し,左兵衛督,権中納言,検非違使別当。1193年従二位に進んだが翌年病により出家した。
京都における頼朝の「耳目」の役を担い、頼朝の斡旋により娘を後鳥羽天皇の乳母や関白九条兼実の子良経の妻するなど上流・有力貴族と姻戚関係を結ぶ一方,みずからは後白河法皇,後鳥羽天皇に近侍しつつ京都政界における地位を高めた。頼朝の娘大姫の入内工作にも関与したと言われる。
自身の死、嫡子高能の死、頼朝の死を契機とし能保系の親幕派勢力は宮廷を追われることになる。

北条氏政(ほうじょう うじまさ)1538―1590

戦国大名、後北条氏第4代。氏康の子。母は今川氏親の娘。
1559年(永禄2)家督を継ぐ。父とともに、上杉輝虎謙信のたび重なる出兵を退けて領国を拡大した。68年末からは駿河に進出した武田信玄と戦い、これを討つため上杉氏との同盟締結に努力、69年に締結した。
71年(元亀2)上杉氏との同盟を絶ち、ふたたび武田氏と和睦、ついで織田信長と結んで、関東の制圧を目ざした。
80年(天正8)氏直に家督を譲ったのちも、実権を握って諸事を決した。豊臣秀吉の上洛命令に応じず、城の修築など軍備を強化し、決戦に臨んだ。90年、籠城策をとって秀吉の大軍を退けようとしたが、ついに降伏。弟の氏照とともに切腹を命じられ、7月11日小田原城(神奈川県小田原市)下で自刃した。

北条氏康(ほうじょう うじやす)1515-1571

戦国時代の大名。後北条氏3代目。氏綱の嫡子。名は新九郎。室は今川氏親の娘。
天文 10 (1541) 年父の跡を継いで小田原城に住し、同 14年駿河に出陣、今川義元、上杉憲政らと戦い、翌 15年には武蔵に出撃して、足利晴氏、上杉朝定、同憲政らの連合軍を破り松山城を攻略。同 20年晴氏、両上杉の軍を武蔵河越に破り、同 23年武田信玄、今川義元と同盟を結び,古河公方足利晴氏を攻めた。永禄4 (61) 年には、小田原城を攻めた上杉謙信を戦わずして退かせ,後北条氏の全盛期を築いた。

北条早雲(ほうじょう そううん)1432~1519

戦国大名後北条氏の祖。
伊勢新九郎長氏と称し,入道して早雲庵宗瑞(そうずい)と号した。出自は不明で、伊勢,京,備中などの諸説がある。
今川氏の食客となって勢力をのばし,1491年堀越公方(ほりごえくぼう)足利政知の子茶々丸を攻めて敗死させた。韮山城を築いて独立し,さらに相模に進出し,小田原を本拠に後北条氏の関東征覇の基礎を確立。

北条時政(ほうじょう ときまさ)1138-121

鎌倉幕府の初代執権。
伊豆に流されていた源頼朝を娘・政子の婿にしたことから、頼朝に従って挙兵。
石橋山の戦いでは長子の宗時を失うが、甲斐源氏を富士川の戦いで頼朝勢と合流させる。
1185年、源義経に頼朝追討の宣旨が出されたことに対して、頼朝の代官として大軍を率いて上洛。朝廷は義経追討宣旨を出すことで対応したが、時政はさらに諸国、荘園に守護、地頭を置く権限や兵糧米を徴収することを認めさせ、初代守護に就任する。
1192年に源実朝が生まれると、その誕生の儀式を行う。翌年の富士の巻狩りでの、曽我兄弟の仇討事件では、その狩場の設定者、曽我五郎時致の烏帽子親ということ等から事件への関与も考えられた。
1199年頼朝が亡くなると、政子とともに頼家を補佐して幕府政治を主導。頼家の親裁権を削減し、御家人の意見を幕府政治に反映する体制を築き、自らは後見として遠江守に任じられる。しかし、頼家の外戚となった比企義員と対立が生じると自邸に誘って誅殺し、実朝を将軍に据えて政所別当となり幕府の実権を握る。
しかし、子の義時や政子と意見が合わず、後妻牧の方との娘の婿となっていた平賀朝雅を将軍に擁立することに失敗し、伊豆に引退させられ亡くなる。

北条政子(ほうじょう まさこ)1157-1225

北条時政の娘として生まれ、源頼朝の妻として幕府の成立と発展に尽くした。
頼朝が石橋山の戦いで敗れると伊豆山に匿われ、頼朝が鎌倉に館を築いてから鎌倉入りした。
1182年長男・頼家が生まれたことでその地位は不動のものとなり、頼朝の寵女亀前を住まわせていた伏見家綱の宅を壊したり、長女大姫の許嫁、源(木曽)義高を討った堀親家の郎従を殺害するなどした。
1195年頼朝二度目の上洛の際は同行し、大姫の入内の話を朝廷の間で交渉している。
頼朝の死後には、その後家として大きな力を振るった。
実朝を廃する動きが出てくると、弟・義時とともに時政を伊豆に引退させた。
1219年実朝も暗殺されると、幕府の実権を完全に掌握。
1221年承久の乱が起こると、軍事動員令を発するとともに、鎌倉に集まった御家人に前に頼朝の恩を強調し、後鳥羽上皇の近臣を討つことを求め、幕府の危機を回避した。
1224年義時が急死すると、甥の泰時を六波羅からもどして義時の後妻伊賀氏が推す勢力を退け、北条執権体制の方向を示し、翌年亡くなる。

北条政子産湯の井戸(静岡県伊豆の国市)
北条政子の墓(神奈川県鎌倉市 寿福寺)

北条宗時(ほうじょう むねとき)?-1180

北条時政の嫡男として生まれる。
源頼朝の挙兵時に、北条氏は兵力の中心を務める。伊豆目代・山木兼隆の襲撃に宗時は父・時政、弟・義時と共に、襲撃隊の先導役を務めています。
石橋山の戦いに敗れた頼朝は、土肥実平の進言により、分散して再起を図るため北条氏と別行動をとることになります。時政と義時は箱根湯坂を経て甲斐国へ向かいます。
宗時は山を降り、伊豆国の平井郷((静岡県田方郡鋸南町平井)を経て、早河のあたりで平家方の伊東祐親の軍に包囲され、小平井久重に射られて討たれた。

北条義時(ほうじょう よしとき)1163-1224

鎌倉幕府の2代執権。時政の子。
石橋山の戦いで兄の宗時が討ち死にしたことから家督となり、また頼朝の側近として行動した。
平氏との合戦や奥州合戦で戦功をあげたのち、1190年の頼朝の上洛では「家臣の最となす」とまで頼朝の信頼を得る。
頼朝の死後は姉・政子と連携を取りながら活動し、源頼家を補佐する13人の御家人のひとりに選ばれ、比企氏の乱では頼家の子・一幡の館を襲撃し、将軍実朝の擁立を確実にした。
その後、畠山重忠の追討事件を契機にして、時政とその後妻・牧の方、娘婿・平賀朝雅を政子の協力を得て退け、幕府の実権を掌握した。
守護職の終身制を改める方針を打ち出して、和田義盛と対立すると、激戦の末に退けた。
義時への反発もまた強く、実朝も意のままになることを拒み始めたところで、1219年に姉供が暗殺され、「尼将軍」政子の下で実権を握る形で幕府政治を推進した。
こうした幕府の内紛をみて後鳥羽上皇は倒幕を計画したが、義時。政子は大軍を上洛させて上皇勢を破ると、3人の上皇を配流するばかりか、六波羅探題を設置して西国の所領を没収したり、地頭職を任じて全国的な支配権を握った。こうして、幕府の体制固めを行ったところで急死します。

北条義時邸跡(静岡県伊豆の国市)
北条義時の墓(法華寺跡)(神奈川県鎌倉市)
義時北条の墓(北条寺)(静岡県伊豆の国市)

北陸宮(ほくりくのみや)1165-1230

以仁王の子。
1179年以仁王の平家打倒計画が発覚すると、剃髪し1182年北陸に逃げ込みます。
平家一門の都落ちの後、源義仲は皇位継承候補者として宮を推挙します。
即位はなりませんでしたが、1185年に源頼朝の計らいにより上洛します。このときにはすでに還俗、元服をしていました。1990年代に源氏姓を望みますが許されず、老後は嵯峨で暮らしました。

細川政元(ほそかわ まさもと)1466~1507

室町後期の武将。応仁の乱後、幕府の実権を握る畠山政長を敗死においやり将軍足利義稙(よしたね)を放逐、義稙の甥の義澄を将軍とした。
山城国をはじめ七か国の守護を兼ね、天下無双の権威といわれた

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